湯煙紀行 奥飛騨温泉郷の巻

      



 乗鞍岳の岐阜側麓に広がる奥飛騨温泉郷に一泊し、
北アルプスを望みながらの野天風呂を満喫した翌日、
乗鞍岳山頂での御来光を拝む事を計画して
朝の4時に宿を出発して愛車のハンドルを握った僕だが、
なにしろ8月のお盆休み真っ只中、大渋滞につかまって、
登山口である畳平の駐車場に着いた頃には
既に陽は登り、時計は午前7時をまわっていた。

平湯峠を登る乗鞍スカイラインが開通してからというもの、
信仰の山、乗鞍岳は最も手軽に登れる3000メートル峰として
多くの人達に親しまれている。
日本を代表する名峰のひとつであるこの山に
車道を通す事にはいまだに賛否両論が出ているが
インチキ山男の僕は何の抵抗もなくこの道を利用する。

駐車場から乗鞍岳の主峰剣ヶ峰の頂上までは約1時間半。
標高差330メートルの登りである。
剣ヶ峰の標高が3026メートルだから、畳平の駐車場は
2700メートルの高さにある事になる。

乗鞍岳噴火の際に出来た火口湖である鶴ヶ池を廻り
山腹についた車道を歩く。
御来光は逃したが、気持ちの良い青空が広がって
素晴らしい登山日和だ。
コロナ観測所、肩の小屋を巡り、数多く点在する火口湖の中で
一番美しいといわれる権現池を眼下に見て、ハイマツ帯の
砂礫に変わった登山道を登り、のんびり朝の9時に山頂に着いた。

風がとても強い。

山頂には信仰の山らしく祠があり、風を避けるために僕は
その祠の影、信州側の石垣に腰を下ろした。
車を利用し、簡単に登れたとはいえ3000メートル峰である。
吹く風は氷のように冷たい。
ハイキング気分の軽装で登ってきてしまったファミリーが
身体を寄せ合って、震えながら弁当を食べている。
『親がちゃんと勉強して来なきゃ子供が可愛そうだよなー』
などとぶつぶつ独り言を言いながら、僕は頭に巻いたバンダナを取り
額の汗を拭いた。

             

ドシン!!


座っていた岩が突然小さく揺れた。

「ひゃあ」

僕の座っている左横の震源地を何気なく見て、
僕は思わず声を上げてしまった。
5センチばかり腰が浮いた。

僕の左、1メートルくらいの所に、
とてつもなく大きな男が座っていた。
身長はゆうに1メートル90センチを越えているだろう。
背が高いだけでなく体格も凄い。
特大のラガーシャツに半ズボンのいでたちで、
そこから丸太ん棒のような手足がとびだしている。
薄く髭を生やし日焼けした顔に優しい瞳が印象的に
前を見ている。
まるでクマだ・・・。
僕の視線と、思わず上げてしまった小さな悲鳴に気がついて
その男はチラリと僕の方を向いて軽く笑った。
とても失礼な事をした僕も、ぎこちなく会釈をして小さく笑った。

             

それにしても良い天気である。

僕の真正面、雲の上に遠く浮かぶ北アルプスの峰々が
パステル画のように美しい。
「ちきしょう、双眼鏡を持ってくればよかったなあ」
使うとは思わず、車の中に双眼鏡を放ってきた僕は
その事をいまさらながら悔やんで、小さくつぶやいた。

ガサゴソ、ガサゴソ

隣りからザックの中をあさる音が聞こえてきた。
その途端、僕の左からヌッと丸太のように太い腕が
飛び出してきた。
「ひゃあ」
10センチばかり腰が浮いた。
見ると太い腕の先の太い指に、双眼鏡が握られている。
腕をたどって左を向くと、クマさんが僕の方を向いて
優しく笑っている。使えというのだ。
僕はまたしても悲鳴をあげてしまった事を恥じながら
ペコリと頭を下げて双眼鏡を受け取った。

望遠レンズを通して大きく映る山々は、
まさに雲の上の要塞だ。
南には木曽の名峰、御岳が堂々と構えている。
北アルプスの峰々も良いが独立峰もまた立派だ。
西北に遠く浮かんでいるのは加賀の白山だ。

玩具を与えられた子供のようにひとりではしゃぎながら、
たっぷり山岳展望を楽しんだ僕は、ペコリと頭を下げて
持ち主であるクマさんに双眼鏡を返した。
クマさんの瞳がやさしく笑っている。

ガサゴソ、ガサゴソ。

展望をおかずに、宿で作ってもらったオニギリを頬張っていたら、
クマさんの方からザックをあさる音が聞こえてきた。
横目で見ていると、クマさんがザックに太い腕を突っ込み
何か探している。
暫くしてザックから手を抜き出すと、その手にはアルミホイルに
包まれた握りこぶし大のオニギリがふたつ出てきた。
僕の握りこぶしではない。クマさんの握りこぶしだ。
だからとてつもなく大きい。
アルミホイルを剥き、丁寧に小さく折りたたむと、
クマさんはそれを半ズボンのポケットにしまった。
なんだかとても微笑ましい光景を見て、僕は再び前を向き
景色を見ながら口を動かした。

ガサゴソ、ガサゴソ

チラリとクマさんの方を見る。
今度はオカズが出てきた。漬物と肉の味噌漬だ。
やはりアルミホイルに包まれていて、中味を食べ終えると
同じように小さく折りたたんでポケットにしまう。

暫くして全てを食べ終えると、
クマさんはまたザックに手を突っ込んだ。

今度はバナナが2本出てきた。

丁寧に皮を剥くと1本づつ美味しいそうに頬張る。
食べ終わると、さっきしまったアルミホイルをポケットから取り出し、
今度は丁寧に広げてそれでバナナの皮を包みザックにしまった。
そしてしまった手をザックから抜くと、今度はその手に缶ジュースが
握られている。

横目でチラチラ見ている僕も僕だが、次はいったい何がザックから
出てくるのかが気になって、ついつい目が行ってしまう。
まるでドラエモンのポケットだ。

缶ジュースを飲みながらチラリと僕の方を見たクマさんと
目が合ってしまった。
盗み見していたことが恥ずかしくなって、慌てて前を向く。
何時の間にか北アルプスが雲に隠れている。

その時、隣りでクマさんが立ち上がる気配がした。
何気なく目をやって、僕はまたしても悲鳴を上げた。

「ひゃああ」

今度は30センチくらい腰が浮いた。
立ちあがったクマさんが、漬物石くらいある大きな岩を
頭上高く振り上げているのだ。
目が真剣だ。盗み見していた事に怒ったのか。
クマさんが思いきり、岩を振り下ろす。
僕は思わず身を縮めて目を瞑った。

ベシャッ!!!

何かが潰れる音がして、恐る恐る目を開けて見ると
クマさんが飲み終えたジュースの空き缶が、
振り下ろした岩の下でペシャンコになっていた。
クマさんは満足そうにそれを岩の下から取り出すと、
ザックの中に放り込んだ。
僕はまたしても恥ずかしくなり、慌てて前を向くと
すっかり雲に隠れた北アルプスの峰々を必死になって探した。

ガサゴソ、ガサゴソ

また聞こえてきた。
悪いと判っていても、どうしても見てしまう。
クマさんが煙草を咥えている。
咥えたまま、真剣な顔でザックの中を
一所懸命掻き回している。

僕は何だかとても嬉しくなって、
自分のザックに手を突っ込み、
そして今度はしっかりクマさんの方を向いて、
取り出した100円ライターを差し出した・・・。




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