湯煙紀行 昼神温泉郷の巻

      



  思いのほかの雪深さにあっさり撤退を決めた
4月の木曽駒ケ岳山行の帰り道、
そのまま家路につくのが寂しくなった僕は、
中央高速を飯田方面に走り昼神温泉に宿を取った。

自分で宿を訪ねるのが面倒で、
宿泊案内所に飛び込んで紹介された宿は、
なかなかどうして近代的なホテルだった。

本来、和風のこじんまりした宿が好みの僕なのだが、
宿泊案内所で紹介された宿にしては
想像以上のレベルだったので嬉しくなった。
ひとりでぶらりと信州を訪れ山に登っては
あっさりと撤退を繰り返し温泉宿に飛び込む僕は、
これまでにも何度か宿泊案内所で宿を紹介してもらった事がある。
しかし、これまで紹介されたいずれの宿も、
僕には不快な思いをした記憶しかない。

箱根旧街道を歩いた後、帰るのが面倒になり
飛び込みで紹介された宿は、まるで古アパートの一室のようなつくりで、
実際部屋にはガスコンロの置かれた台所まであった。
しかも窓を開けるとベランダには錆びて塗装の剥げた
物干し竿までぶら下がって・・・。
笠が岳に登った後、宿泊案内所で紹介された
新穂高温泉の自称「くつろぎの宿」は、まるでタコ部屋のような
4畳半の客室で、同じように宿泊案内所の紹介で訪れて
宿を見るなり帰ろうとした客が、意地の悪そうな顔をした宿の主人と
キャンセル料を払うの払わないのでもめていた。
それに比べれば今回の宿はたとえ和風でないにしろ充分満足である。

昼間は日帰り入浴施設として賑わう、宿泊施設付きの
クアハウスのようなホテルのため大浴場はとても広い。
日帰り客は夜の8時までで、その後は翌日の朝まで
24時間入浴可能のため、山の幸がふんだんに盛られた豪華な夕食を
タラフクいただいた僕は、部屋に戻って一眠りしてから
ゆっくり温泉に浸かることにした。

           

千畳敷カールの雪の斜面で思いのほか緊張していたのか、
一眠りするつもりが爆睡してしまった。
重たい瞼をこじ開けると時計はすでに午前零時を過ぎている。
「まあ、かえって温泉もすいているだろうし良しとするか」などと
独り言を言いながら風呂の支度をのろのろと始める。
僕は独り言がとても多いのだ。

煙草を一本吸って眠気を覚まし、部屋を出て、
すでにメインの灯が落ちた廊下を通って
階段を静かに下り、地下の大浴場に向かった。
暖簾を潜りスリッパを脱いで広い脱衣所に入る。
消えていた脱衣所の灯りをつけた。
その時、ガラス戸を隔てた浴場の方からピチャリと
お湯の揺れる音がした。

「あれ?誰か入っているのかな?」ズボンを脱ぎながら
何気なく独り言を言った途端お湯の音が止み、
いきなり浴場に続くガラス戸がバーンと開いて、
ウリみたいな体形をした素っ裸のおばさんが
物凄い勢いで浴場からイノシシみたいに飛び出してきた。

「どわぁぁぁぁぁ!」

度肝を抜かれた僕は大声を出すと、脱ぎ掛けのズボンを足に絡めて
尻餅をついてしまった。
その横をすり抜けるようにおばさんは
「すみません!すみません!」と叫びながら暖簾を頭で掻き分けて
凄い勢いで廊下に飛び出していった。
両の手で胸と大事な部分を隠してはいるが、
僕からみればお尻丸出しである。
呆気に取られる僕の耳にスタタタタッという裸のまま廊下を走り去る
おばさんの足音が小さくなっていく。一瞬の出来事である。

「なんだなんだなんだ」

だだっ広い脱衣所で間抜けな恰好で尻餅をついている僕は、
何が何だか訳が解からず、あんぐりと口を開けたまま、
しばらく動き出す事が出来なかった。

男湯と間違えて僕は女湯に入ってしまったのだろうか?
しかし、暖簾を見ると確かに青い生地に大きく男と書いてある。
それじゃ、あのおばさんが間違えて男湯に入ったのか?
そう思いながら何気なく脱衣籠を見ると桃色の和服が
丁寧に畳まれて入っている。
このホテルの仲居さんが着ている服とよく似ている・・・
というよりそっくり・・・
というよりそのものである。
いまだに事態が飲み込めない僕は、脱衣所の椅子に腰を掛けて、
ゆっくりと煙草を一本吸ってみた。
それにしても素っ裸で走り去ったあのおばさんは
この後どうするつもりなのだろう。
なんだかよく解からないが、とにかく風呂に入ることにした。
ふと目の前の鏡を見ると、ズボンを膝まで下ろしたまま椅子に座って
煙草の煙をくゆらしている自分の姿が映っていた・・・。

             

僕以外誰もいない、午前零時過ぎの大浴場はシンと静まり返り、
湯殿に流れる温泉のチョロチョロという音だけが心地よく耳に聞えてくる。
桶を床に置いたカコーンという澄んだ音色が広い浴場の壁に反響して、
思わずホッとため息をつきたくなる。
ゆっくりと浴槽に身を沈める。
心と身体に沈殿した疲労とストレスが一気に放出され、
全身の筋肉という筋肉の全ての緊張が弛む瞬間だ。
「ふ〜っ」とひとつ息を吐く。

その時、浴場のガラス戸を、トントンとノックする音が聞えてきた。
別の客が来たのだろうが、大浴場に入るのにわざわざノックするというのは
どういう事だろう。

「失礼してよろしいでしょうか・・・」

ガラス戸の向こう側から遠慮がちな男の声がした。
不思議な宿である。なんだか気味が悪くなってきた。
「どうぞ」と応えてみる。
すると静かにガラス戸が開いて、何と黒いスーツに蝶ネクタイ姿の男が入ってきた。
足だけは裸足である。
髪に白いものが混ざったその初老の紳士は、浴槽に首まで浸かった僕の側に寄ってくると
洗い場に膝を折った。浴槽の中から僕が男を見上げる恰好になった。

「どうもこの度は大変な失礼をいたしまして。私は当ホテルの支配人でございます」
いきなり男が頭を下げた。
「な、なにがですか?」
「先ほどこの浴場から女性がひとり飛び出して行ったかと思うのですが・・・」
「はあ、飛び出して行きました」
「あれはうちの従業員でございます」男はさも困ったものだという顔を作り小声で言った。
ふたりしかいない浴場で小声になる必要もないと思うが、その声は浴場にこだまして、
増幅してしまったのでどちらにしても意味がない。男は続ける。
「実は彼女、お客様の途絶えた頃を見計らって、浴場の清掃をするつもりでここに
入りまして・・・いや、本来は入口に『清掃中』の札を立てるのですが今日に限って
忘れたようで・・・」
は、はだかで掃除するんですか!?」
「い、いえいえ、けしてそんな・・。実は彼女、いざ清掃に入ったものの、
誰もいない浴場を見ているうちに昼間の疲れがあったのか、ついつい温泉に
浸かりたくなってしまったと言うのです」
「はあ、それで裸に」
「誘惑に負けて、もうお客様はいらっしゃらないだろうと勝手に判断して、あろうことか
男湯に浸かった途端、お客様がいらっしゃり、気が動転して
裸のまま飛び出していったのでございます」
「それはそれは」まるで漫才の合いの手のような返答だが、何と言ってよいのか解からないので
仕方がない。
「本人も、お客様に大変申し訳ない事をしたと、泣きながら支配人室に飛び込んで来まして」
は、はだかでですか?」
「いえいえ、服は着ておりました」
「そりゃ良かった」何が良いのか解からない。
「本人も大変反省しております。どうかここはお客様の広いお心でお許し願えませんか?」
「許すも許さないも、別に僕は怒っていませんよ」
「あ、ありがとうございます」支配人はもう一度、深く頭を下げた。

不思議な光景である。
ここは浴場である。本来ならば裸である僕が正しい恰好だ。浴場でスーツに蝶ネクタイは
絶対におかしい。
しかし、こう面と向かって二人きりで話をしていると、服を着ている人間の前で
素っ裸で応対している自分がだんだん情けなく思えてくる。
「すみませんが」なぜだかすっかり肩身が狭くなってしまった僕は、
浴槽の中から亀のように首だけ出して支配人に言った。
「別になんとも思っていないので、ひとりにしてもらえませんか。そろそろ上がりたいので・・」
支配人は慌てて立ち上がった。
「こ、これは重ね重ね失礼致しました。それではお言葉に甘えて失礼させて頂きます」
腰を折ったまま後ずさりするようにガラス戸の前まで下がっていく。
「あっ、それともうひとつだけ」支配人がガラス戸を開けながら顔を上げて言った。
「仲居が残していった脱衣所の着物を持って帰ってよろしいでしょうか」
そんな事を聞かれて『だめです』なんて言う人が世の中にいるのだろうか?

平身低頭のまま支配人が去ってから、僕はしばらく浴槽の縁に腰掛け、
足でお湯を漕いでボンヤリしていた。

チャポ チャポ チャポ

漕がれたお湯が小さな波を作り浴槽の反対側の縁をたたく。

静かだ。
その静けさの中で僕は、大浴場に来てから起こった、この小一時間の騒動を
ひとつひとつ思い出してみた。

なんだかとても可笑しくなってきた。

クスクスと笑った。

そのうち次から次へと笑いの波が押し寄せてきた。
そしてそれは次第に大きな波となり、やがては津波となって僕を襲った。
僕は浴槽の縁に腰を掛けたまま腹を抱えて大きな声で笑った。

ぶわーはっはっはっはっは

その笑い声はひとりだけの大浴場に何時までも何時までも大きくコダマしていた。




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