湯煙紀行 東丹沢七沢温泉の巻



           



めずらしく横浜に雪が積もった2月の中旬、
日溜りにキラキラ輝く白い雪に誘われるままに、
丹沢の里山で1日雪遊びに興じた僕は、
その日の宿を、麓のひなびた温泉街にある七沢温泉に取った。

都心から僅かな距離で出掛ける事のできるこの温泉は、
週末といっても、わざわざ泊まりで訪れる登山客は少なく、
たとえ飛び込みでも、比較的苦労することなく宿を取ることができる。
広い庭の軒先に、檻に入った猪を飼うその宿の夕食には
鹿刺しに猪鍋、そして川魚の塩焼きといった、
野趣満点の料理が並んび、いかにも昔ながらの山の温泉といった風情だ。

まさかこの肉はさっき軒先で見たあの猪じゃあないだろうなあ…などと疑いながらも、
おひつに入った白いご飯をたらふくお腹に詰め込んだ僕は、
例によって食事が終わるとともにまぶたが重くなり、
温泉に入るのも億劫になって、ふかふかの蒲団に潜り込んでしまった。

付けっぱなしだったテレビの音に目を覚まして
枕元の時計に目をやると時間はすでに夜中の1時だ。

何時ものことながら、僕の温泉宿での夜の過ごし方には、
のんびり寛ぐという時間がほとんどない。
とにかく食事をとるとすぐに眠たくなってしまう僕は、
夕食後の寛ぎの時間をほとんど爆睡で終わらせてしまうのだ。

ぬくぬくと蒲団から抜け出してタバコを1本吸い、
あくびを連発しながら、何とか頭をすっきりさせ、
宿に入った時、女将さんに24時間入浴可と教えられた
大浴場へ行ってみることにした。

人見知りの激しい僕は、大浴場が苦手でる。

ところが不思議なもので、そういう人間であればあるほど
風呂の洗い場で、あるいは湯船の中で、まわりの人間に話し掛けられるのだ。
しかし、さすがにこの時間ならば風呂に入っている客もいないだろう。

僕はタオル一枚ぶら下げて、すでに常夜灯の灯りだけになった薄暗い廊下をそっと抜け、
この宿自慢の天然温泉の湧く大浴場に向かった。

男湯の青い暖簾をくぐって入った真夜中の広い脱衣所は
さすがにシンと静まりかえっており、2月のひんやりとした冷気が身にしみる。

「おお、寒い」などと独り言をいい、パッパッパッと服を脱ぎ捨てて、
タオル一枚を首に掛けて浴場に繋がるスリガラスのドアを開けた。

浴場と脱衣所の温度差のせいか、浴場から湯気が一気に上がり、
目の前が湯煙で隠れた。
広い湯船にコンコンと流れる温泉の音だけが、静かな浴場に響いている。

「おお寒い・・・」

僕はもう一度同じことを言い、そそくさと蛇口のお湯で身体を流し、
駆けるように温泉に飛び込んだ。

広い湯船の端に背中をもたれて手足を伸ばす。

「ふ〜〜〜・・・」と自然に息が漏れる。

身体中のストレスがふわっと開放される瞬間だ。

しだいに湯煙がおさまり始め、大浴場全体が、
ぼんやりと見渡せるようになってきた。

宿自体は古い造りだが、さすがに女将さんが自慢するだけあって、
大浴場は立派である。
御影石の湯船から透明な温泉が溢れ、
そのお湯が、青石の敷き詰められた洗い場に静かに流れ落ちて行く。

静かだ・・・。

もう一度溜息をつき、手足を伸ばし直したその時・・・

僕は、静かな湯船の中でふと自分に向けられた視線を感じた。

その視線は僕がいる湯船の端から斜め前、
ちょうど湯船の真ん中辺りから注がれているような気がした。
僕以外にも、実はこの真夜中の湯船に浸かっている人間がいたようだ。

しかし問題はその視線だ。

視線からは、なんだかとても張り詰めた、
なんとも言えない威圧感を感じるのだ・・・。

湯船の中で首から上だけ出し、僕はそろりそろりと黒目だけ動かして、
横目で視線の先を見た。

うわっ!

と声を出しそうになり、僕はその声を何とか飲み込んで、
真横を向いていた自分の黒目を真正面に戻した。

湯煙の向こう、湯船のど真ん中に、体格のよい丸坊主の男性が、
胸を反らせ天井を見上げるようにして、
身じろぎもせずに湯船に浸かっていたのだ。

・・・

怖い人だ・・・。

横目でちらりと見ただけで怖い人だとわかる。

しかもそうとう機嫌を悪くしているようだ。
じっと天井を見上げながら、視線だけは僕を睨みつけているような気がする。

こ、こわい・・・。

途端に緊張が走り、大浴場全体に緊迫感が張りつめた。
真正面を向きながら神経だけはその男の方にくぎ付けになる。

真夜中の大浴場で、よりによって大変な人とふたりきりになってしまった。

・・・・・

重苦しい沈黙・・・。

・・・・・

宿と客に気を使い、わざわざ夜中に温泉に入ったのに、
その静寂をやぶって、僕が湯船に飛び込んできた事に気分を害したのか。
黙ってはいるが、今にも声を掛けてきそうなその圧倒的な威圧感は、
ただの怖い人ではなさそうだ。

慌てて湯船を出て浴場から逃げ出そうと思ったが、
湯船に入ってまだ2分も経っていない。
そそくさと逃げ出したら、呼びとめられて、
かえって何か言われそうだ。

僕は真正面を向いたまま、小さな脳味噌をフル回転させて、
どうやってこの状況を打開するかを懸命に考えた。

全然、気がつかない振りをして、このまま湯船を出て
鼻歌でも歌いながら頭と身体をのんびりと洗い、
「あ〜、さっぱりした〜」なんて言いながら、
さりげなく脱衣所へ脱出するか・・・。

いや、駄目だ。この緊迫感の中で鼻歌なんか歌ったら、
声が裏返ってヨーデルのようになってしまいそうだ。
こんな夜中に静かな温泉でヨーデルなんか歌った日には
2度と朝日が見れないような気がする。

いや待てよ。もし周りに気を使って皆が寝静まった
こんな夜中に風呂に入っているとしたら、
もしかしたら実はけっこういい人なんじゃないのか?
こちらから「こんばんは」なんて声を掛ければ
案外にっこり微笑み返してくれるかも・・・。

いや・・・そんな人ならば、もうとっくに向こうから話し掛けてくるはずだ。

ああ。それより何より、早く出てくれないかなあ。

何でそんなにじっと天上を睨んでいるんだ。

何が面白くないっていうんだよ・・・。

いろいろ考えている間もその怖い人は身じろぎもせず、
じっと天上を睨んでいるようだ。

真夜中の静まり返った大浴場に、重苦しい沈黙が流れる。
その中に僕の鼓動だけが今にも聞えてきそうである。

うう・・・静かすぎる・・・。

・・・・

・・・・・・

・・・・・・・・

数分後、湯の中に浸かり続ける事に我慢が出来なくなり、
そして、本来ならのんびり寛ぐべき温泉で、
何のかんのと、ごちゃごちゃ頭を働かせている自分に
僕はだんだん腹が立ってきた。
何より、だだっ広い真夜中の大浴場に張り詰める異様な緊迫感に、
僕は耐えられなくなってきたのだ。

漫画「あしたのジョー」の中で、矢吹丈が力石徹との両手ぶらり対決の
その重圧に耐えられずに、右のストレートを打ってしまったあの心境である。

ええい、なるようになれ!

僕は意を決し、湯船の真ん中に浸かり続ける男に向かって勢い良く顔を向け、
「こんばんは!」と大きな声を出した・・・。

・・・・・

あれっ・・・?

・・・・・

返事がない・・・。というより様子が変だ。
男は僕が声を掛けても、相変わらず天井を見上げたまま微動だにしない・・・。

首さえもこちらに向けないのだ。

・・・・・

あれっ・・・?

湯気に煙る湯船の中の男に目を凝らす。

少し近づいてみる。

動かない・・・。

湯船の中を這うようにそろりそろりと男のすぐ横まで近づいた。

天井を見続ける男をじっと見る・・・。

・・・・・

な、なんだあ〜〜!?

動かないはずである。

それはつるつるの石で作られ、湯船のど真ん中に置かれた
一体の男のオブジェだった・・・。

なんだよ〜〜!!

僕は真夜中の大浴場で繰り広げたひとり芝居がすっかり恥ずかしくなり、
この人騒がせな等身大のオブジェに向かってザバンザバンとお湯を掛け、
つるつるの頭をペシペシと叩きながら文句を言い続けた。

真夜中の大浴場にザバンザバンというお湯の音と僕の大きな声が、
何時までも響き渡る。

途端に真夜中の大浴場が賑やかになった。

僕にお湯を浴びせられ、罵倒されながらも、
丸坊主のそのオブジェは、湯船の真ん中で、
文句も言わずに、のんびりと天上を眺めていた。

そして天井に向けられたその目は、
心から温泉を楽しんでいるように
優しく笑っているのだった・・・。




        



   



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