湯煙紀行 穂高温泉「P.青い屋根」の巻

   



燕岳の急坂をヒーヒー言いながら下山し、爆笑に近い笑い方をしている両膝を
「もうちょっとだけ辛抱してくれ」となだめながら、やっとの事で中房温泉から
穂高町に下る県道の途中にある、ペンション「青い屋根」に飛び込んだ。

ここに投宿するのは初めてだが、僕はこのペンションが一発で気に入った。
何より、オーナーが必要以上の事に干渉しないのが良い。
食事はペンションに有りがちな一見、フランス料理風のコースであり、
それほど感激するほどのものではないのだが、中房温泉から引いた温泉が
最高に気持ち良い。

内湯と露天風呂があり、特に露天風呂は真下に中房からの渓流が流れ、
対岸に茂る緑とあいまって野趣満点である。
一泊ではあったが、四度も入ったこの温泉のおかげで、僕の両膝も何とか
オスマシ顔に戻ってくれたようだ。

穂高に行くと必ず寄るところがある。
それは山岳美術館や絵本美術館などが並ぶ、穂高町の広域農道を
松本方面に進んだ途中にある生果物店である。
といっても、お土産に果物を買っていくためにここに寄るわけではない。
小さな小屋のようなその生果物店の横に、その店が経営している広大な
りんご農園がある。
独特の山容の有明山に向かってなだらかな勾配を見せるこの農園に
一匹の犬が放し飼いになっている。

僕がここに寄るのは、この犬に会うためなのだ。

ゴールデンリトリバーの血が入ったと思われる、褐色のこの大型犬は、
僕が農園の前に車を止めて、道路と農園を隔てる針金の柵に近づくと
遠い斜面の向こうから、僕を見つけて凄い勢いで走り寄ってくる。

彼の口には大のお気に入りのゴムボールが咥えられている。

そのまま柵にぶち当たってしまうのではないか、と心配するほどの勢いで走ってきた彼は、
柵の前で急停車すると、針金の間から顔を出し、
咥えていたゴムボールをボトリと僕の前に落として僕の顔を見る。

「投げろ」と言うのだ。

久しぶりの挨拶もない。
彼はボール遊びが大好きなのである。
僕は穂高に来るたびに彼とキャッチボールをするために、この農園に立ち寄るのである。

僕はそのボールを拾い、東京ドームの数倍はあろうかと思うリンゴ農園に向かって、
思いきり投げてやる。
待ってましたとばかりに彼はきびすを返し、ボールに向かってダッシュする。

見る見る彼の姿が小さくなる。

限りなく広がる緑、爽やかに吹き抜ける風。

青く高い空に真っ白な雲。遠く台形の有明山。

まるで一枚の絵葉書を見るようだ。

絵葉書の中で犬がボールを追いかけて翔け回る。
数十秒もすると、ボールを咥えた彼が全速力で戻ってくる。
とても得意げな顔だ。
そして、僕の前でボールをボトリ。

「おまえ、何もそんなに息を荒くしてまで急ぐこと、無いじゃないか」
ボールを拾いながら僕が言う。
彼のヨダレでボールはベチャベチャである。
大型犬だけに、その量も半端じゃない。

「行くぞ、ダレ!」
僕が言ってボールを投げるポーズをとる。
「ダレ」というのは僕が勝手に彼につけた名前である。
「ダレ」は「ヨダレ」の「ダレ」である。飼い主が聞いたら目を剥いて
怒りそうな名前だ。

握ったボールを、ダレが期待に満ちた瞳で見つめる。
「これでどうだ!」とばかりに思いきりボールを投げる。
ダレがダッシュする。拾ってきて、ボトリ。もう次の準備をしている。
期待に答えてやらなければいけない。
しかし10分も続けていると、さすがに疲れてくる。
もちろん僕がだ。
自分から遊びに来ておいて勝手な男である。

ダレはというと面白くてしようがないという顔で、ボールと僕の顔を交互に見比べて
次の一投げを待っている。赤ん坊と同じで際限が無い。
「そろそろ、勘弁してくれよ」
そんな事を言っても聞いてくれるはずもない。
仕方なくボールを拾い、巻き戻したビデオテープを再生するようにボールを投げる。

飛び跳ねるようにボールを追いに行くダレの後姿を見ながら、
「この隙に車に戻ってしまおうか」と一瞬思う。
ダレの後ろ姿を目で追いながら、一歩後ろに後ずさりする。
しかし、一生懸命にボールを咥えて戻ってきながら、
僕が居なくなっていた事に気づいた時の、ダレの悲しそうな顔を想像すると、
どうしても車に戻る事が出来ない。

「どうした!頑張れ!」

意に反してダレに向かって大声で囃し立てる。
いっそう張り切ったダレがボールを見つけて、凄い勢いで戻ってくる。

「もう、これで最後だぞ.」哀願を込めてダレに言う。

そんな訳ないか・・・・・。

昼を過ぎ、気温は上がり有明山にフェーズが掛かり霞み始めた。
白い雲の流れが速い。
穂高の夏を歓喜するセミ達の声が、いつの間にか僕の周りを包んでいる。

「それっ!」

遠くそびえる有明山に届けとばかりに、
僕は空に向かって思いきりボールを投げた。




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