湯煙紀行 白馬岩岳「林ペンション」の巻




また雨だ・・・・・。


それも、10メートル先も見えないほどの土砂降りの雨だ。

なぜ、白馬に来ると、こうも雨にたたられるのだろう。
今回の白馬岳行きもあえなく中止である。
しかたなく岩岳にある日帰り温泉施設、
その名も「岩岳の湯」に入って鬱憤を晴らした後、
岩岳どんぐり村の林の中にある「林ペンション」に飛び込んだ。

林の中にあるから「林ペンション」なのではない。
林さんがオーナーだから「林ペンション」なのである。
林さんは身体は大きくないが、後立山で山岳ガイドも勤める
生っ粋の『山や』であり、立ち振る舞いの奇麗な、
いつもニコニコした奥さんと、このペンションを経営している。
八方からは少し離れているが、お湯の豊富な岩風呂が
ついた小奇麗なペンションだ。

山行を中止して、飛び込みで入ったのだが、お風呂といい部屋といい、
そして何よりオーナーに親近感を覚えて、
僕はこのペンションが一辺で気に入ってしまった。

林さんは、とても人見知りである。

だから、なかなか客の前に姿を現さない。
何時も食堂の奥にある厨房で黙々と何かやっている。
対照的に、厨房の前には、いつも奥さんがニコニコ笑みをたたえて立っていて、
食堂に集まった客と和やかに会話を交わしている。
姿を見せない林さんだが、厨房の奥で、奥さんと客の会話はちゃんと聞いている。
そして、山や観光についての質問が客から奥さんに出ると、
奥の方から、ボソボソと奥さんに説明している。
それを聞いた奥さんは、例のニコニコ顔で、客にそれを伝える。
『直接、話をすれば良いではないか』と思うかもしれないが、
僕にはこの気持ちが良くわかる。

『人見知り』はこうなのだ。

初対面の人と話しをするのは苦手だが、でも話しをしたい。
この辺の心の葛藤が、この『林ペンション・オーナー会話システム』に
とても良く表れている。

一泊した翌日、小雨の空の下、今日はどうしようかと悩んでいたら
「高瀬ダムの方にでも散歩にいらしたら?コバルトブルーの湖面がとても奇麗よ。
主人も今日は小学生の林間学校の引率を頼まれて高瀬ダムに行くらしいから、
向こうで会えるかもね、って言ってたわよ」
と奥さんが薦めてくれた。厨房の奥に、林さんの顔が見える。
ほんの一瞬だが目が合った。
はにかんだ、それでいて優しい目が笑っている。

高瀬ダムに行く事に決めた。

高瀬ダムは言わずと知れた北アルプス裏銀座コースの登山口である。
裏銀座を歩いた事がない僕は初めて行く場所だ。
途中、高瀬川渓谷を抜けた七倉ダムまでは車では入れるが、
その先は一般車通行止めで、タクシーか徒歩で行くしかない。
歩けば約一時間の道のりだ。

七倉荘前の駐車場に車を止め、迷わず歩き始める。
昨日からの雨で空気はますます清らかに澄み渡り、深呼吸をする度に
煙草の煙でいっぱいになっている自分の肺が、完璧に洗浄されたと錯覚してしまう。
滴の垂れる針葉樹の間から聞こえる、ウグイスのさえずりが何ともいえず心地よい。
真っ暗なトンネルに入る。念のために持ってきたヘッドライトが役にたった。
生憎の天気で観光客も登山者も殆どいない。

トンネルの長さはかなりあり、恐がりの僕は途中で段々不安になる。
その途端、何も見えない遥か前方で、突然「ウワーーーーン」という
複数の人間の発した奇声がトンネル内に反響した。
思わず飛び上がって悲鳴を上げた僕だが、暫くして例の林間学校の生徒達の
歓声である事がわかってホッとする。
という事は先頭には林さんが居るはずだ。

トンネルを出ると、また雨脚が強くなっていた。
暫く歩くと目の前に高瀬ダムの堰堤が見えてきた。
高瀬ダムは日本には珍しい、岩石、砂利を積み上げたロックフィル方式のダムであり、
その斜面についたジグザグの道を登って堰堤の上に出る。
斜面はかなりの高さがある。
ところが、そのジグザグの道一杯に、先行した小学生が張り付いている。
遠目で見ると、まるで蟻の行列である。
あの後ろに付いたら何時堰堤の上にたどり着けるかわからない。
煙草を一本吸う時間だけ思案した僕だが、その火を消した時には
あっさり退却を決め込んでいた。

大町の山岳博物館などに寄り道をして宿に帰ると、林さんはもう戻って来ていた。

「登らないで帰っちゃたんだ」はにかんだ顔で僕に言う。
「見えてたんですか?」
「堰堤の上に着いて後ろに続く生徒達の方を見たら、ちょうど下に見えた。
なんだか、悪かったね」ばつが悪そうに言う。
「いえいえ、雨脚も強かったし、多分生徒さん達がいなくても登らなかったと思いますよ」

考えてみたら、このペンションに泊まって、林さんと直接話しをしたのは初めてである。
なんだか、いっぱい話しをしていたような気がしていたのだが。

夕食の時間、奥さんが僕のテーブルに一枚のステッカーを持ってきた。

「主人がこれをって」
そういって僕に、そのステッカーを手渡す。
いつまでたっても子供っぽい僕はバッチやステッカーが大好きで、
その頃乗っていた車にも山関係のステッカーをやたらベタベタと貼っていた。
三角形のそのステッカーは山岳用品メーカーのラテラのもので、
林さんの知り合いが経営しているのだそうだ。
すっかり嬉しくなった僕は、夕食後さっそく駐車場に行き、
リアの一番目立つ場所に、そのステッカーを貼った。

宿を起つ日、玄関まで見送ってくれた奥さんが
「今度、うちの主人、テレビに出るのよ。白馬を舞台にした2時間ドラマなの。
もちろんエキストラなんだけど。登山シーンの指導なんかもしたらしいのよ。
良かったら見てあげて下さいね」と素敵な笑顔で言った。
林さんは、宿の奥からちらりと顔を出し、人懐っこそうな顔をして軽く手を挙げた。

横浜から帰り、1ヶ月程経った夜、宿で聞いた、林さんが出演するというドラマが放映された。
上高地、白馬を舞台にしたサスペンスドラマである。

ドラマが始まって30分くらい経った頃、林さんが画面に映った。

遭難した男の遺体を、白馬の麓で山の友人達が取り囲み、
山の鎮魂歌を歌うシーンである。

大勢の山男の輪の中で、林さんは後ろの方から遠慮がちに顔を覗かせ、
懐かしい、例の少しはにかんだ顔に人懐っこそうな目をして、
恥ずかしそうに口を動かしていた・・・・・。




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