湯煙紀行 新穂高温泉「双六荘」の巻

     



ガタガタガターン!!

車を運転していた僕は、車底で起きた大きな音と同時に
突然物凄い衝撃を受けた。
富山から岐阜に向かう国道での出来事だ。

その日僕は、前日台風に直撃されて縦走を断念した立山を下り、
台風一過の快晴の中を飛騨高山に向かってハンドルを握っていた。
岐阜県に入るちょっと手前で、道を間違えている事に気がついた。
このままでは富山の市街に逆戻りしてしまう。

信号待ちで車を止めたとき、左側にちょうど空き地を見つけた。
奥の方に材木が積まれた、小さな公園ほどの広さの空き地だ。
「ここでUターンしよう」
独り言を言いながら左に大きくハンドルを切り、アクセルを踏んだ。
その途端、さっきの音と衝撃に襲われたのだ。
空き地の入り口と思ってハンドルを切った左側には、実は縁堰があり
僕の車は物の見事にその縁堰に乗り上げてしまったのである。

FF車の前輪が完全に縁堰を越え、前輪と後輪の間のボディの底が
縁堰に引っかかっている。哀れ完全な亀の子状態だ。
結果が判っていながら、ちょっとアクセルを踏んでみる。
運転席の外で虚しく前輪が空回りする音が聞こえる。
途方に暮れてしまった。

とりあえず外に出ようと運転席側のドアに手を掛けてガラス越しに
ふと外を見ると、反対車線を隔てた向こう側の歩道から、
真っ白な服にこれもまた真っ白なコックの帽子を被ったひとりの男性が、
対向車を避けながらこちらに向かって凄い勢いで走ってくるのが見えた。
歩道の向こうにしゃれたパン屋さんの看板が見える。
どうやら、その店のオーナーらしい。
「どうしたんだろう」
自分の今の状態を考えたら、とてもそんな事に気を取られている場合では
ないのだが、走ってくる勢いがあまりに凄いので、僕は外に出るのも忘れて
その男性に注目してしまった。

トントン!

ガラスを叩く音で我に返り、運転席の斜め後ろを見る。
すると金髪に派手な服を着てサングラスを掛けた20代前半の若者と、
その彼女らしい茶髪で丸顔の女の子が外からこちらを覗き込んでいる。
訳が判らずウインドガラスを下げると
「とりあえずエンジン切って、ブレーキ踏んでいてください」とニコニコ笑って若者が言った。
リアウインドウから後ろを覗くと、真っ赤なスポースカーが僕の亀の子車のすぐ後ろに、
縁堰に幅寄せして停まっている。
どうやら、僕の後ろを走っていて、僕がやらかしたドジを一部始終見ていたらしい。
「すみません、こんな事になっちゃって・・・」
車から出ようとした僕を、いつの間にか若者と女の子の横に並んでいた
パン屋のオーナーが手で止めて、
「あそこに積んである材木を使おう」と言いながら歩き始める。
なんとオーナーは僕のために走ってきてくれたのである。
若者と女の子がオーナーに続く。
僕が縁堰に乗り上げてから、この間わずか30秒くらいである。

慌てて車から降りた僕に向かって、材木を持ってこちらに戻ってくるオーナーが
「良いって、良いって。アクセル踏めとかハンドル切れとか指示するから、
それまで車に乗ってなよ」と大きな声で制する。
見るとオーナーの後ろから、金髪の若者と、そして茶髪の女の子までが
自分の身体の数倍もあるような材木を引きずってこちらに向かってくる。
「僕も運びますよ」自分がこの事件の張本人の癖に、
まるで他人事のように言う僕に向かって「大丈夫だから、乗っててください」と
若者がニコニコ笑いながら言う。
スゴスゴ運転席に戻る。

助手席側の外で「もう何本か必要だな」とか「あの太いのを持ってきましょう」などと
3人が会話をしながら、テキパキと動き回っている。
縁堰の外側に材木を積んで、タイヤに噛ませて脱出させる作戦らしい。
あれよあれよと進んでいく展開に、僕はその光景を車の中でただ呆然と眺めていた。

「エンジン掛けて軽くアクセルを踏んでみて!」
暫くして、車の前に周ったオーナーがフロントガラスの向こうで、
車体の左下を覗きこみながら言った。

エンジンを掛けゆっくりとアクセルを踏んでみる。
今まで宙に浮いていた左側の前輪が縁堰の向こう側に積まれた材木を捉えた。

ゆっくりと車が進む。

「軽くハンドルを右に切って、そのまま進んで!ゆっくりね!」
言われたとおりにハンドルを切る。今度はタイヤが縁堰を捉えた軽い衝撃が、
車体を通して、僕の身体に伝わってくる。

「オーライ、オーライ、ゆっくり、ゆっくり」

何時の間にかオーナーの横に若者と女の子が並んでいて、フロントガラスの向こう側から
左の車輪と僕の顔を交互に見比べている。
ノロノロと車が進み、次の瞬間、ガタン!!!という大きな衝撃と共に、
僕が座っている運転席の位置が下がって、ウインドガラスから見る外の景色が
一段低くなった。縁堰のこちら側に戻って来れたのだ。
フロントガラスの向こうでオーナーが右手でOKサインを作って見せ、
若者がニコニコ笑い、女の子がパチパチ手を叩いた。
慌ててドアを開け外に飛び出す。

「本当にどうもありがとうございました」
頭を下げる間もなく、3人はもう材木を片付け始めている。
女の子の材木を奪い取るようにして運びながら「何かお礼させてください」と僕は言った。
「良いって、良いって」オーナーが笑いながら言う。「とにかく良かったよ」
「おっちょこちょいですねー」女の子がイタズラっぽく笑った。
「後ろで見ていてビックリしましたよー」若者が言った。
「あっ、いけねえ」オーナーが材木を置いたかと思うと慌てて走り始めた。
「パンを焼いている途中だったんだ」
もう、対向車線を渡っている。
「ありがとうございました!」走り去っていくオーナーの背中に向かって叫んだ。
走りながらオーナーが軽く左手を上げた。
「お気をつけて!」材木を片付け終えて、若者が赤いスポーツカーに乗り込む。
「ちゃんと周りを見て運転しなきゃだめですよ」女の子が笑いながら助手席に姿を消した。

運転席に乗り込み、窓から顔を出して後ろの車にもう一度頭を下げアクセルを踏み込んだ。
あらためてUターン出来る場所を探すために2分程車を走らせていたら、車道が2車線になった。
ブロロローーーッとエンジン音が後ろから聞こえ、赤いスポーツカーが右車線に出たかと思うと、
僕の車を追い越した。
追い越し様に助手席の茶髪の女の子がニコニコ笑って僕に向って手を振った。
その向こうの運転席から金髪の若者がハンドルを握りながら、こちらを覗きこむようにして
Vサインを出した。
あっという間に追いぬいていくスポーツカーに向かって、僕はもう一度頭を下げ、
聞こえぬことが判っていながら「ありがとう!」と叫んだ。

その日の宿、新穂高温泉の双六荘には午後の4時頃到着した。
さっそく部屋に案内され、お茶とお菓子が出される。
「まだ食事まで時間があるから、一風呂浴びて来たらええ」
人懐こそうな仲居さんがお茶を入れながら言う。
「そうさせてもらいます」

しかし、仲居さんが去った後、僕は暫く風呂には入らなかった。
今日の出来事ですっかり温かくなった心の温もりを、もう少し味わっていたかったからである。
廊下に出て自動販売機で缶ビールを一本買った。
部屋に戻って窓際に腰掛け、ビールを口に運ぶ。自然に笑みが浮かんでくる。
ちょっとだけ唇を開け、僕は呟いてみた。

「世の中、捨てたもんじゃないなあ」




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