文鳥問題.

ここでは文鳥をめぐる諸問題を不定期にとりあげ、参考までに載せています(追記あり)。
ご意見などは頂ければ『問題のその後』として随時考えたいと思います。

すでに取り扱ってしまった問題
換羽と産卵 その後 文鳥生産地 その後 食べ物の話 その後 壷巣と底網 その後
白の起源 その後 桜の固定化 その後 野生文鳥   ペレット論 その後
配合餌拝見 その後 10 獣医の誤解 その後 11 補助食品 その後 12 海外事情? その後
13 比較インコ   14 読書とネット   15 産卵の是非   16 鳥カゴなど その後
17 病院と検査   18 ひとり餌   19 飼育タイプ   20 共通感染症  
21 栄養と日光   22 体内時計   23 文鳥の御守   24 近親交配  
25 止まり木   26 暖房の話 その後 27 ペットロス   28 品種の危機  
29 文鳥の迷信   30 究極の食餌   31 ヒナのエサ   32 動物の自由  
33 エビデンス              

《エビデンス》

 「この話には根拠があるのだよ、ふふふふ」と言うばかりで、根拠を隠していては議論になりません。そして、もし散々思わせぶりをした挙句、提出された根拠がいい加減なものだったら、その後は誰も信用しないでしょう。この根拠をエビデンスと言いかえても同じのはずですが、日本人の一部には良くわからないカタカナ言葉をありがたがる傾向があるようです。例えば「コンプライアンス委員会を設置し企業倫理の確立を・・・」と大会社の社長様が仰せになれば、何やらたいそうなことのように思えるかもしれませんが、「法律を守んないと駄目なんよってことをダチ公とこれから話しあうぜ」と訳したらどうでしょう。お前のとこは、違法行為ばっかりで商売してたのか!と突っ込みたくなりませんか?なるべく日本語でわかりやすくしたいものです。【2007年3月】


ヨウ素のエビデンス

 白状しよう。私が「エビデンス」という言葉を知らず、それを目にした時は、海老の入ったピザか、幼児のヒーロー物に登場する海老型の怪人の名前だと思ったことを。しかし、それはB級グルメのよた話の中で見出したのではなかった。『コンパニオンバード』と言う雑誌(誠文堂新光社『CompanionBird No.6』2006年11月)に掲載された、首都圏の獣医さんたちの座談会記事に載っていたのである。
 再び白状しよう。その雑誌の端に小さく「エビデンス」の意味が書いてあるにもかかわらず、とりあえず「エビデンス」をグーグルの検索窓に貼り付けて、結局ウィキペディア
(インターネット上で変化していく百科事典)に行き着いたことを・・・。それによれば、「evidence」は英語で「証拠・根拠」の意味で、業界用語として使用され、医学業界では「ある治療法がある病気・怪我・症状に効果があることを示す証拠、検証結果」「医療行為において、治療法を選択する際の根拠」を意味するのだそうだ。

 さて、2006年3月現在の我々は、医学業界用語としての「エビデンス」がいかに相対的なものに過ぎないか、実例をもって思い知らされている。
 例のタミフル。たかだか10年前に作られ、5年ほど前から使われだしたこのインフルエンザ治療薬を、日本の優秀な内科医たちが、世界の消費量の80%を占めるまでにせっせと処方してくれた結果、それまでの「副作用がきわめて少ない」とされていたエビデンスがはかなくも揺らいでしまっているではないか!
 インフルエンザで高熱になれば、布団の中で幻覚の一つくらい見ない方がおかしいが、さりとて、普通、起き上がって高いところに駆け上がって飛び降りる元気があるだろうか?タミフルの効果により、熱が下がり足腰もしっかりしていなければ不可能な芸当だろう。そのように身体行動的には正常に復せしめた上で、幻覚によって異常行動を引き起こすのであれば、これは常識的には薬の副作用と言うより無い。少なくとも、即刻その疑いをいだかない方がおかしい。ところが、いつも製薬会社のひも付きがのさばっているらしいあの役所は、こりもせず後手後手後手と被害者を拡大させるのだから、呆れるよりも空恐ろしい限りである。
 この、いつも「サプライズ!」な厚生労働省というお役所は、ご存知のように、当初タミフルを飲んだ場合と飲まない場合の有意な違いを示すエビデンスは無いと言い張っていた。確かに、違いが無いとするエビデンスはあった。ところが、社会問題化してきたために、おっとり刀で少しばかり調べたら、何やらその見解とは違ったエビデンスが出るわ出るわ・・・なので、現在10歳以上の使用禁止を通告するに至っている。そして、さらに確実なエビデンスを得るべく、サンプリング調査などをこれから頑張って実施してくれるらしい・・・。

 このように、エビデンスは何らかの結論の根拠となりうる数ある中の一つの科学的データであるに過ぎず、それデータ自体が普遍的、絶対的、恒久的にエビデンスであり続けるものではあり得ない。むしろ、何らかの学術的な議論をする際には、それぞれの仮説が論拠としているエビデンス自体も、検討の対象として絶えず注意される必要があり、むしろその検証こそが、医学界に限らず本来の研究者の役割といっても過言ではない。
 そもそも、薬という直接的な健康被害を招きかねない物は、動物実験を繰り返し、さらに人体での治験で重大な副作用がほとんど起きなかった、といった実に明確なエビデンスを得なければ、使用を許可されない。ところが、そうした立派なエビデンスを持つにもかかわらず、実際に多くの患者が使用するようになると、副作用が強く出るケースが現われてしまい、使用禁止になることも珍しくないのが現実だ。つまり、タミフルのように先の治験でのエビデンスは覆され、より多くの現場「実験」によるエビデンスが優先せざる得なくなることは普通に存在し、また当然有り得る事としておかねばならない。問題は、公正な態度でその問題性を早く探知出来るか否かであり、一つのエビデンスに寄りかかり見直しを拒否し続けるなど、責任を追及されてしかるべき行政の怠慢と言わねばならない。
 このように、一つのエビデンスは案外に頼りないものに過ぎないので、たった一つのエビデンスに頼ってしまうのは非科学的な妄信に過ぎないとさえ言いえる。そもそも科学的データと言うものは一つではなく
(一つであってはならないし、一つだけでは研究は出来ない)、いくつかある中でより有効と思われるものを選び、それをエビデンスとせざるを得なかっただけであることを、科学者だと思うなら常々肝に銘じておかねばなるまい。

 さて、本題に戻そう。

 コンパニオンバード誌上において、飼鳥の甲状腺腫をヨウ素の不足に由来すると熱く主張する一人の獣医さんが、その自らの見解のエビデンスを、10年以上も前にオウム目とスズメ目すべてを包括するという、とても「アメリカン」な科学データ、たった一つのそれをよりどころとされているのには、驚愕させられた。以前すでに指摘したところだが(『10獣医の誤解 その後』)、そのエビデンスとされた大雑把な科学データらしきもので必要とされているヨウ素の数値には、過剰の疑いが濃厚に存在するのである。
 その獣医さんは、たった一つの、それもどういったサンプリング調査の結果としての科学的データなのかすら不明らしきもの
(十分なものでないと本人たちも認めているが、この食性もばらばらな広範囲の種を包括してデータ化するなど、非科学的と言う以前に非常識にしか思えない)をエビデンスとした上で、過剰に摂れば問題となるような特定の栄養素の摂取を、まさにそのデータのみからはじき出した必要数値を明示して働きかけている(そのデータをエビデンスとしていることは、ご主張になっている数値の内容から明らか)。これは科学者として見れば実に大胆な行為であり、さらに臨床医としては危険極まりない態度ではなかろうか。もし、将来において、より詳細で正確と思われる科学的データが提示され、オウム目とスズメ目すら一緒してしまう怪しげな数値が示す必要量の何十分の一になっていた場合、この獣医さんはどうされるおつもりだろうか?よほど浮世ばなれした無責任な科学者であれば(何しろ研究室の中しか知らない)「10年前にはわからなかった事実がわかった!」などと、脳天気なのか健忘症なのか無責任体質なのかは知らないが、昨日までの主張をすべて無かったことにして済ませてしまえるかもしれない。しかし、実際に必要量の何十倍もの摂取を他人に薦めてしまった臨床医では、自分のその結果的に誤った「指導」に従って、愛鳥に過剰に与えてしまっていた飼い主たちに対して、道義的にせよ責任を強く感じなければならなくなるのではなかろうか。
 エビデンスとなり得るデータが他にない状態で、いい加減なデータだけを元に、現実に薬害が起こりうるようなことを薦めるのは、あまりにも軽率と言わざるを得ない。まず自他の説を問わず、その論拠(エビデンス)を疑うのは、人文科学にも自然科学にも共通した科学の初歩の初歩であり、もし、臨床医でありながらより科学者として研究を志向するのであれば、その科学データがエビデンスたり得るのかをまず最初に十分に検討した上で、信頼に足りると科学的な客観性を自分で確信してから、それに基づいた議論を展開し、他人に薦めて頂きたいと切に思う。
 また、そのオウム目とスズメ目全体を一括したデータをエビデンスとして、そこから緻密な1日の必要摂取量を割り出して提示しながら、ヨウ素の含有量が明確でない「ちゃんとしたペレット」や「総合ビタミン剤」を薦めているのは、失礼ながら、実に非論理的=非科学的な態度と言わねばならない。まず、それらのものに、この獣医さんがはじき出した明確な必要数値のヨウ素が含まれているのか、その明瞭なエビデンスをご提供にならなければ、「エビデンス」を云々する資格は無いように思える。
 そもそもヨウ素は、大陸の海から遠い内陸部においてのみ、意識して摂取しないと問題になるもので、海に近い地域では土中に含まれているため、不足することなど有り得ない栄養素である
(海から蒸発してイオン化したものが、風雨によって土中にしみこみ、それを吸収した植物を食べることで補われる)。海から遠い内陸部にしても、飲み水が軟水だと問題になるが、硬水なら問題ないといった程度の微々たる必要量なのである(ミネラルを多く含む岩盤などを通過すると、水にミネラル分が溶け出し硬水となる)。つまり、ヨウ素とは、日常生活の上では、わずかであっても摂れているか、それともまったく摂れていないかのみが問題とされる栄養素で、摂取量のごくごく些細な数値など、気にするようものでは無いのである。したがって、おそらくこの獣医さんが期待するほどの、つまり私が過剰を心配するほどの量が、ペレットなりビタミン剤に含まれている必然性はまったくないので、あくまで想像だが、「ちゃんとしたペレット」や「総合ビタミン剤」は、過剰の心配が出てくるほどの量を添加させるような軽率な冒険行為はしていないだろう。
 この獣医さんにしても、ヨウ素も少しは必要なので、それも含まれている「はず」のペレットや総合ビタミン剤を与えた方が良い、くらいの漠然とした主張をされるのなら、何ら問題なかった。もう一歩進んで、ボレー粉程度ではまかなえないかもしれないと疑義を呈しても、まだ非難を受ける危険性は少なかったかもしれない。ところが、科学的だと思ったのか、それとも素人受けをねらったのか、わざわざいい加減なエビデンスを元にして細かな数値をはじき出し、結果として非論理的=非科学的な主張をしてしまっていることを、私は非常に遺憾に思っている。この獣医さんは記事の末尾で、読者である飼い主たちに向け「みなさんがんばってください!!」とお書きになっているが、鳥に詳しい獣医師の不足に悩む飼い主の方が、よほどこの獣医さんには期待し、がんばってもらいたいのである。そこで、僭越ながらエールを送りたい。

 エビデンス不足の栄養指導はほどほどに、日々の治療をがんばってください!!

 

飼育のエビデンス

 この『文鳥団地の生活』というHPの紹介文として、「従来の飼育法に異議を唱える独自の考察と文鳥史」とあって驚いたことがあるが、私自身は基本的に従来の方法論を踏襲するスタンスだと認識している。独自の飼育法を不特定多数の人に訴えるようなアクションはせずに、ネット社会でものめずらしい飼育方法を主張される方々へのリアクションが多いのではなかろうか。もし伝統的な方法から逸脱している点があるとすれば、文鳥を飼育する主な目的を、伝統的と言うより古風な鑑賞や繁殖にではなく、手乗りにして室内で遊んでもらうこと、に置いている点だけだのように思える。しかし、文鳥との付き合い方は、飼育法とは少し次元の異なる話なので、基本的には「従来の飼育法」に則っていて、さほど「異議を唱え」てはいないつもりだ。
 もちろん、経験的に信じられている「従来の飼育法」の中には、誤りとは言えないまでも、誤解を招きやすかったり、不十分であったり、今現在の社会状況とは適合しなかったりすることもある。また、以前にはなかったより良い
(と思われる)方法もあるはずなので、個人的には今現在行っている飼育法を墨守するつもりは欠片もない。しかし、それにしても、エビデンスだとか、最新の何とかだとか、文鳥飼育の実態をほとんど理解していない人たちによって放たれた軽率な言葉がネット上をフワフワと漂い、現実の飼育で問題を起こすことに歯がゆい思いをさせられるのは、あくまでも主観的な話には相違ないが、事実だ。

 まずは、飼育におけるエビデンス(根拠、以下いちいちカッコ書きするのは、はっきりとした嫌味だ)とは、何かをお考え頂きたい。私は、得体の知れないデータよりも、基本的に経験論を優先させるしかないと思っている。机上の空論なり、頭の中で小理屈をこね回したところで、現実としてうまく行かなければそれまでであり、見かけだけで論理性の欠如した妄想で、例えば既述のように、栄養素の多寡を細かく云々すると、逆に通常ではありえない過剰摂取となって取り返しのつかない事態を招かないとも限らず、まともな飼い主であれば、机上の空論でそのような危険は犯せない。何しろ、相手は生き物で、それもかけがえの無い自分の文鳥であってみれば、その生命に直結するような飼育面の決定的な失敗を避けるべく、冒険よりも保守、現状維持を選択する傾向が強くなるのは当然のところのように思える。
 ただし、この経験論とは、自分自身の限られた体験談を意味しない。自分自身の体験は、それは確かに個人的には抜き差しならない経験かもしれないが、あくまでも主観上の事実に過ぎないので、客観的にはたんなる思いこみであることも多い。例えば、何十年も小鳥屋さんをしているお爺さんが、文鳥をペアでないと売らないと言うので理由を聞くと、片方を売ると残った方が寂しがって死んでしまうからだ、と大まじめに主張されたことがあるが、これはやはり主観的な思い込みでしかない。そのお爺さんは、一羽になった文鳥が死んでしまうという動かし難い体験をし、それをエビデンス
(根拠)として、ペアでしか販売しないと言う結論に至ったに相違ない。しかし、私はこの体験からの結論を完全に否定しなければならない。なぜなら、確かに文鳥は夫婦のきずなが強い小鳥なので、ペアの片方がいなくなれば、残された方は一時的に大きなショックを受けるが、しっかりした環境で飼育している限り、大事に至ることはないからである。手近な体験としても、我が家でたびたび繰り返された伴侶の死に際し、後追いで死んでしまった文鳥は皆無なのである(複数いるので次の恋愛対象を探し始める。実にたくましい)。そもそも、そういった個人的体験以前に、伴侶を失った一方も必ず死んでしまうなら、おそらく文鳥という種類は絶滅していたのではあるまいか・・・。
 では、なぜお爺さんのお店の文鳥に限って死んでしまったのだろうか?真相は不明だが、類推は容易だ。そのお店の文鳥が冬でも外に出したままで、巣も設置されていないという事実をエビデンス
(根拠 )にすれば、精神的ダメージよりも、身を寄せて暖をとる相手がいなくなるという物理的ダメージによって体調を崩してしまっ たと考えられよう。そして、それはお爺さんの目では気付かないかもしれないが、冬季の文鳥一羽での屋外飼育は危険という、実にありふれた大昔からの経験論に過ぎないのである。個人の体験も重要だが、経験論とするのであれば、より冷静で客観的にいかに合理的であるかを、他の体験や経験論(昔の飼育本など)、さらに何らかの科学的データなどから十分に検証しなければ、とんでもない思い違いを何十年もしたままになっていて不思議は無い。

 さて、近頃、私は改めてこの体験からくる思い込みの恐ろしさを思い知らされた。
 体験上無いと思い込んでいた家具の隙間に、放鳥中に1羽の文鳥が入り込んで挟まるという遭難があり、それに一晩気付かず救えなかったのだ。何とも、飼い主としての不甲斐なさを露呈し、個人的に受けたショックは甚大であったが、そのような中で読んでいた最新の文鳥飼育本の内容
(誠文堂新光社『小動物ビギナーズガイド文鳥』2007年3月 ※上の雑誌と同じ出版社だが偶然だろう。なおこの飼育本の感想はコチラ参照)は、思い込みから受けるショックという意味で、さらに強烈な一撃を、飼育情報を発信している零細ホームページの管理人に与えたのだった。なぜなら、この飼育本の筆者であるライター氏は、ベテラン飼い主として尊敬されるべき人であるにもかかわらず、おそらく個人的な体験から思い込みを続け、その危険な思い込みを他人に流布して気付かないらしいことを露呈していたからである。私は、このライター氏と飼育方法の細かな点で意見を異にするが、根幹的な部分では違いは無いはずで、あくまでも一般的な飼い主側の視点で考えてくださる方だと信じていただけに、もちろんそのような一方的信頼感などライター氏のまったくあずかり知らぬ所ながら、私は大きな失望を感じたのであった。
 何にそれほど大げさに失望したかと言えば、大きなところは一つに過ぎない。それは、手乗り文鳥とするために親鳥から引き取るべき時期を、孵化10日目と断定されている点だ。もしかしたら、初心者なら初心者ほど、これを些末なことに思われるかもしれない。しかし、何の理屈も無く常識的な飼育方法を真っ向から否定し、それを初心者に広めようとするのが、信頼にたるベテラン飼い主と何年にもわたって思いこんでいた人物だったのだから、今までの価値観が足元から崩壊したように感じられたのも、個人的に止むを得ないところなのである。もし、同じ主張を飼育経験の怪しいどこかの獣医さんがしたとしても、また知ったかぶりの戯言が出たかと苦笑いするだけのことなのだが・・・。
 これを読まれているテラン飼い主の中にすら、もしかしたら、ご自身の体験から孵化10日目で良いと思われる人がいるかもしれない。何しろ、この飼育本の筆者であるライター氏も、親鳥から引き取る機会があればそうしているに相違なく、それで問題が無かったはずなのだ。しかし、それは個人的な体験談であって経験論ではないことに気付いてもらわねば困る。確かに孵化10日目でも人工育雛は可能で、文鳥の場合、慣れてしまえば容易と言っても良いだろう。何しろ、繁殖家の中には、親鳥に次の産卵をさせるためにわざわざその頃から引き取り、一週間ほど人工育雛したヒナを「出荷」するという話もあるくらいなのだ。
 しかし、それは経済的な要求のもとで、いかに早く引き取れるかを追求した結果の方法論であって
(早く育雛を終えさせ、次の産卵を促す)、早ければ早いほど良いが、10日目以前だと餌づけが困難なので、それくらいまで待っているに過ぎない。一方、この新しい飼育本以外のすべての飼育本に共通すると言って良い孵化2週間、つまり孵化14日目頃に親鳥からヒナを引き取るとする方法は(例えば、宗こうすけ氏は「孵化後2週間ほど」、高木一嘉氏は「孵化後14〜15日くらい」、江角正紀氏は「孵化後14〜16日位」としている)、それ以降では人間を警戒するためのもので、いかに長く親鳥に世話をさせるかという観点からの経験的結論なのである。
 普通の飼い主は、生まれたヒナを商品とは見なさないし、親鳥を経済動物という観点では見ていない。そのような一般的な飼い主であれば、親鳥がしっかり育雛している場合、なるべく長く育雛を任せるのが安全だと考えるのではなかろうか。そして、孵化10日目に取り出しても、孵化14日目に取り出しても、同じように手乗り文鳥になるという疑いようの無い経験的事実が存在するのであれば、より安全な14日目を選択するだろう。まして、経験の無い初心者に対しては、より育てやすく安全性が高くなっているはずの14日目での引き取りを推奨するのが、常識的判断のはずである 。

孵化当日 孵化7日目 孵化9日目

孵化13日目

孵化16日目

孵化18日目

 この文鳥では肝心な10、14日目の写真がなかったのでその点ご勘弁ください。
 孵化当日は目になる部分は黒いだけで、アイリングになる部分はありません。7日目になるとうっすらと出来てきて、ゆっくりゆっくりと形成され、13日目にはごく小さな目が開いています。それが少しずつ大きくなり、16日目にはかなりぱっちりと開くようになり、21日目になるとカメラをにらみつけるようになっています。

孵化21日目

 私には、筆者のライター氏が他の飼育本の記載や、多くの体験談(例えば私は孵化16日目に親鳥から引き取り、何の苦も無く手乗り文鳥にしている)を知らないとは信じがたい。そこで、いろいろとある方法論の中から、あえて孵化10日目と断定したのには、何らかのエビデンス(根拠)があるに相違ないと憶測してみた。そして、私は、ライター氏が触れる諸点から、ヒナの目に横線が入り目が開いてくる時期と、引き取り日数を関連付けたものと判断するに至った。
 A.手乗り文鳥は飼い主を親と認識
(刷り込み)されることで可能になる。
 B.刷り込みとは、初めて見たものを親と認識することである。
 C.文鳥の目が開きはじめるのは孵化11、12日頃である。

 このA、B、Cはすべて科学的にも現実的にも明瞭な客観的事実なので、その事実をエビデンス
(根拠)として結論を導き出すとすれば、手乗り文鳥にするためには、目が開く直前の孵化10日目に親鳥から引き取らねばならない、が論理的帰結となる。しかし、このエビデンス(根拠)には重大な欠陥がある。それは、目が開くことを初めて見ることと単純にイコールとしていることだ。これは残念ながらきわめて単純な誤解と言わねばならない。そもそも、目が開き眼球が姿を現すのと、視覚が発達してものを認識するのとは別次元の問題であり、もし、眼球が表出した瞬間の孵化11、12日目に、すでに動物行動学上の「刷り込み」が起きているのであれば、多くの体験の積み重ねとして得られた経験論である、孵化14〜16日目に引き取って手乗りにすることなど困難でなければならない
 D.文鳥は孵化14〜16日目に引き取っても容易に餌付けができる。
 これも動かし難い客観的事実である以上、CでありながらDであるのは、視覚神経が発達し物を認識できるのは孵化14〜16日目であるため、文鳥においては、その頃に初めて「刷り込み」が行われると結論する以外にない。
 本来、刷り込み
(インプリンティング)を扱う動物行動学において、行動そのものが重要なのは言うまでも無く、その対象動物の行動を観察する中で、Cのような行動とは無関係な身体的な外的変化を判断に加えるべきではない。つまり、行動をとらえそれをデータ化し判断しなければならない科学分野に基づくのであれば、Cのような行動そのものとは無関係の事柄を混入させたこと自体が、素人の不用意さ以外の何ものでもなく、それは非科学的な判断と言わねばならない。

 ここで、特に初心者に対して、孵化10日目にヒナを引き取る必要が無いと、改めて繰り返したい。早期の人工育雛は、それだけ消化器官も未熟なため、消化不良も起こしやすいとの獣医さんの有力な指摘もあるように(高橋達志郎先生『小鳥の飼い方と病気』、なお先生は引き取り時期を「孵化後15〜20日の間」とされている)、科学と非科学を区別できない軽率な個人的な思い込みによる飼育本の、経済動物ではないペット動物に対しての、きわめて珍しい飼育方法を信じて苦労する必要は、皆無であるばかりか危険な面もあると認識してもらいたい。
 なお、孵化10日目に引き取るようにと珍しい主張を行うこの飼育本は、食滞の際の対処法を細かに記しているのだが、食滞なり消化不良は幼いヒナほど起こしやすいものなので、これでは、ヨウ素不足を強調する獣医さんの患者に限って、なぜか多くのヨウ素による問題が生じているらしいのと同様、「マッチポンプ」を疑われてしまうように思われる
(あくまでも私の体験に過ぎないが、16日目に引き取って以降に食滞が起きたことは無い)

 孵化10日目としてしまったライター氏にせよ、ヨウ素の獣医氏にしても、あくまでも善意で努力されていることは、重々承知しているだけに、上述のようにその主張を客観的に検討した時に疑惑を招きかねない点があることを、はなはだ遺憾とするところである。

 飼育は現実なので、経験の積み重ねが重要であり、そこに科学的知見なり、新たな方法論を慎重に組み込みながら、少しずつ変わっていくべきものだと私は考えている。しかし、経験となりうる自己の体験が一つも無い初心者は、なるべく冒険的行為は控えた方が良いとも思っている。始めはオーソドックスが無難なのだ。
 獣医さんなり繁殖家なり店員なりベテラン飼い主なり、何やら飼育に詳しそうな人が、最新だとか、エビデンスだとか、科学だとか、獣医の推奨だとか、果ては「体験したからわかる!」、などと断定的に自信満々に言っても、だいたいは理由付けすらなく、あっても、科学的・客観的・論理的とは言いがたい底浅い愚劣な個人的思い込みに過ぎないことの方がよほど多いと、この際断言したい。本来、まともに飼育体験を積んで、まともに情報を集めているような獣医さんや飼い主は、いかに多くの意見があり、多くの飼育方法があり、その中で自信満々の意見ほど薄っぺらなことを十分認識しており、それだけに相手の状況も考えず断定的にものは言い難く、自分の意見を述べる時は、いくつもある方法の中で、なぜそれがより有効であるか、その理由を説明する必要性くらいは感じないはずがない。
 最新の科学などと言われ、それらしい専門用語を散りばめられて自信たっぷりに断言されれば、簡単に信じてしまえる人も多いかもしれない。しかし、科学とは論理、平たく言えば理屈であって、その結論に至る過程の検討が問題なのである。つまり、何をエビデンス
(根拠)とし、それをその人がどのように論理的に解釈したかを問題としなければならない。したがって、理屈も無く結論だけを押し付けるのであれば、それがどなた様の主張であれ、ことごとく非科学的なその人だけの持論に過ぎないと受け止めるべきなのである。そして、それが論理的に整合性を持つか、つまり科学的かを自分の頭で検証出来ないような人は、そういった物言いをする人には近づかないか、もしくは完全に信用しない気構えをしてからご意見を拝聴してもらいたい(もちろん私の言うことも全面的に信用しなくて良い。論理的に正しいか否かが問題。で、論理的矛盾がありましたか?)

 飼育方法におけるエビデンスとは、基本的に経験論から導き出されたものであるべきだとしても、当然それは個々の体験談ではなく、先人たちの体験が積み重なって集約されたものでなければならない。そのような経験を集積した結果としてのエビデンスを、一個の体験で覆そうとするのは無謀に等しい行為となっていることが多い。
 例えば、以前某マンガ本が文鳥の孵化日数を体験上22日目としていたのは、江戸時代から文鳥の孵化日数は16・17日目と決まっていたことに、十分配慮した主張とは思われない。もし、どうしても通説を覆したいのであれば、孵化器を買ってきて実証するしかないが、私なら19日くらいかかったと主観的に思えたことがあっても、抱卵開始時期の観測を自分が誤っただけだと納得出来るので
(巣に入っていても抱卵しているとは限らない。抱卵はお腹の地肌に卵をすり付けなければならないが、巣の文鳥が卵の上にただ乗っているのか、卵を地肌の下に抱え込んでいるのか、この判断は絶望的に難しい)、わざわざ検証しようとは思わない。何しろ、うんざりするくらいの多くの体験の積み重ねをエビデンス(根拠)とする通説を覆したければ、明瞭な実験で勝負するしかないのは明らかで、たかの知れた個人的体験でそれに反するなど、その経験論の重厚さを理解していれば、通常の感覚では不可能だろう。
 同じように、引き取り時期は孵化14日目で問題ないとする、やはりうんざりするくらいの体験の積み重ねをエビデンスとする通説を覆したければ、やはり少なくとも14日目では不都合な理由を提示しなければ話にならない。また、江戸時代からうんざりするくらいの多くの体験の積み重ねの中で、誰も気付かなかったような日本の飼鳥におけるヨウ素の欠乏状態を証明したいのであれば、実験動物を飼育し、ご自分が主張する栄養素量を与えるものと、与えないものとの有意な違いを明らかにしなければならないことくらい、よほど非科学的な素人でなければわかりきった話であろう
(エビデンスが無ければ自分で探すのも科学者)。これは、得体の知れないたった一つのデータをエビデンスと思い込み、他人様のペットに過剰症を招く前に、是非とも必要なプロセスなのである。
 もちろん、いかに「うんざりするくらいの体験の積み重ね」があっても、昔と今では飼育環境などに大きな違いがあるので、飼育方法として踏襲しがたい面もある。例えば、昔は通気性が悪く、日も当たりにくい屋外の庭籠
(ニワコ)で飼育されることが多かったために、毎日必要とされた日光浴は、通常通気性の良いカゴが使用され、日光浴で得られるビタミンD3も食べ物で補うことが出来、また野鳥からの感染症も心配される現在において、さほど神経質に行う必要は無くなったと言えよう(個人的には屋外に出すメリットとデメリットを考えた時、やらない方を選択する)
 こうした些細な点は、先人たちの積み重ねてきた飼育上の経験を、それなりに理解してはじめて現状との違いとして理解できてくるもののように思える。私は何となくながら、それを理解しているつもりなので、根本的な面で通説を覆すような無謀の持ち合わせは無い。したがって、枝葉末節のところで改良主義を取っている次第だ。一方で、そういった経験論を理解出来ていないと、曖昧模糊たる一片のデータに極めて安易に依拠し、現実離れした栄養指導をしたり、己の体験が普遍的なものと錯覚するような
(もしくは自分の間違った体験から極端な思い込みに走る)、はたから見れば大胆不敵なことが出来るのではあるまいか。すでに数多くの体験が集約したエビデンス(根拠)から成り立っている経験論に対し異を唱えるのであれば、少なくとも己の新たな主張の正しさを明らかにするエビデンス(根拠)を明示しなければ、たんに経験論も理解せず己の特異性も認識しない無知蒙昧の戯言と見なされる可能性を、十分に考慮しなければなるまい。

 今回取り上げた獣医さんにしても、ライターさんにしても、鳥たちに良かれと思って持論を公にしているに相違ない。その善意は疑うべくも無いが、あまりにも飼育における経験論に対しての配慮を欠いているため、自分の主張の特異性にも気付かずに、あくまでも結果としてだが、非常に不確かな情報や妥当性の無い情報によって、おもに初心者を飼育上の危険にさらしかねない情報の発信源になってしまっているのである。
 これはご本人たちも意図しないところのはずで、客観的に批判する者としては
(是認出来ないばかりか危険性を感じるので批判するしかない。こういった特異な方法で苦労する初心者が、回りまわって当ホームページに迷い込んだりするので、曖昧に済ませることは出来ない)いま少し慎重であって頂きたかったと遺憾の意を表明したい。


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